LOGIN「これより、医療戦士の選定を始めます」
その言葉が告げられた瞬間、講堂から人の気配が消えたように感じた。
実際には、大勢の新入生が座っている。けれど、誰も咳一つしなかった。俺の隣にいるテオさえ、さっきまでの落ち着かない様子を忘れ、壇上を見つめている。
俺は緩めたネクタイに指を差し入れ、息を吐いた。
入学式が始まってから、ずっと首元が苦しかった。第一ボタンを外し、袖も少しまくっている。エマには式が始まる前に直せと言われたが、結局そのままだった。
これから医療を学ぶのに、服の形ばかり気にしていられるか。
そう思っていた。
壇上では、透明な箱の蓋が開かれた。
中に収められていた白いハンカチが、誰の手も触れていないのに浮かび上がる。
淡い光が布の周囲に集まり、ゆっくりと講堂へ広がっていった。
俺は膝の上で手を握った。
医療戦士。
世界中に広がる疫病と戦い、治療を待つ人々のもとへ向かう存在。
入学前から、その呼び名だけは何度も耳にしてきた。人を救う特別な力を持つ者として、期待と称賛を集める存在だ。
けれど、俺がなりたかったのは、そんな大げさなものではなかった。
俺は普通の医者でよかった。
目の前で苦しんでいる人がいたら、何が起きているのかを考える。必要な治療を選び、その人が自分の生活へ戻れるように手を貸す。
それができれば十分だった。
多くの人から名前を呼ばれることも、英雄のように扱われることも望んでいない。
それなのに、白いハンカチを見ていると、胸の奥が落ち着かなかった。
「ハヤト」
テオの小さな声が聞こえた。
「手、すごいことになってるぞ」
言われて初めて、自分が拳を強く握り締めていたことに気づいた。爪が食い込み、手のひらが痛い。
「緊張してるのか?」
「してない」
「そうか。俺はしてる。もし俺のところに飛んできたら、驚いて避ける自信がある」
「避けるなよ」
「だって、いきなり布が飛んでくるんだぞ。顔にかかったら前が見えない」
真剣な顔で言うものだから、張りつめていた息が少しだけ抜けた。
前の席にいたエマが振り返る。
「二人とも、静かに」
「ほら、怒られた」
「おまえのせいだろ」
「ハヤトも返事をしたから共犯だ」
エマは呆れたように俺たちを見たあと、俺の手元へ視線を落とした。
強く握ったままだった拳を見て、彼女の表情がわずかに変わる。
「無理に平気なふりをしなくていいのよ」
「別に、平気なふりなんてしてない」
「だったら、そんなに手を握り締めなくてもいいでしょう」
エマに言われ、俺は指の力を抜いた。
「選ばれるのが怖いの?」
問いかけに、すぐには答えられなかった。
選ばれるわけがない。
そう言えば済むはずなのに、その言葉が喉で止まる。
「……わからない」
ようやく出たのは、そんな曖昧な答えだった。
「選ばれたいのか、選ばれたくないのかも、自分でわからない」
「それでいいんじゃないか?」
テオが言った。
「俺なんて、今日の昼飯を何にするかも決めてない」
「医療戦士と昼食を同じ問題にしないで」
エマが冷たく返す。
「どっちも自分で決める前に、向こうから来るかもしれないだろ」
「昼食は飛んでこないわ」
「食堂で勢いよく皿を取ったら、たまに豆が飛んでくる」
「テオ、少し黙って」
「はい」
素直に口を閉じたテオを見て、また笑いそうになる。
エマは正面へ戻る前に、俺へ言った。
「選ばれてから考えても遅くないわ。選ばれなかったとしても、医療を学べなくなるわけではないもの」
「ああ」
「でも、もし選ばれたら」
エマの目が、まっすぐ俺を捉えた。
「一人で全部できると思わないことね」
その言葉の意味を聞く前に、講堂の空気が揺れた。
白いハンカチが壇上を離れたのだ。
いくつもの列の上を通り、生徒たちのあいだを巡っていく。
近くを通るたび、誰かが息を呑む。自分の前で止まってほしいと願っている者もいれば、俺のように、身を固くしている者もいる。
ハンカチは一度、講堂の中央で止まった。
淡い光が強くなる。
次の瞬間、進む向きを変えた。
こちらへ来る。
まっすぐに、俺のいる列へ。
「え」
テオが短い声を漏らした。
俺は動けなかった。
白いハンカチが視界の中で大きくなり、胸元へ飛び込んでくる。
反射的に差し出した手の中へ、柔らかな布が収まった。
温かい。
ただの布とは思えないほど、そのぬくもりははっきりしていた。
手のひらから腕へ、腕から胸へと、光が流れ込んでくるようだった。
周囲から歓声が上がる。
「ハヤト!」
テオの声も聞こえた。
けれど、俺は返事ができなかった。
自分の手に収まったハンカチを見つめる。
選ばれた。
俺が、医療戦士に。
うれしいのかと聞かれても、まだ答えられない。
驚きも、戸惑いも、怖さもあった。
この光を手にした瞬間から、俺は誰かに期待される。
助けてほしいと願う声が、今までよりもずっと近くなる。
もし、その期待に応えられなかったら。
もし、目の前の人を救えなかったら。
ミナを見つけても、何もできなかったら。
息が浅くなる。
手の中の光が、急に重く感じられた。
「ハヤト、呼ばれてるぞ」
テオに肩を叩かれ、我に返る。
壇上から俺の名前が呼ばれていた。
「行ってこい」
「ああ」
立ち上がろうとしたとき、前の席からエマが手を伸ばした。
指先が俺のネクタイに触れる。
「待って。せめてこれを――」
「大丈夫だ」
俺はその手を避けてしまった。
早く壇上へ向かわなければならない。大勢の視線を受けていることにも耐えられなかった。
「あとで直す」
そう言い残し、通路へ出た。
獅子寮の生徒たちから拍手が送られる。
「獅子寮から医療戦士が出たぞ!」
「すごいじゃないか!」
「これで今年は獅子寮が一番だ!」
自分に向けられているはずの言葉なのに、遠くで聞こえた。
一歩進むたび、責任が肩へ積み重なっていくようだった。
壇上へ上がり、教員の前に立つ。
光のハンカチを両手で持ち直した。
「ハヤト・キサラギ。あなたが光のハンカチに選ばれたことを、ここに認めます」
「……はい」
「今、何を思っていますか」
突然の問いだった。
期待に満ちた静けさの中で、俺は答えを探した。
うれしいです、と言えばいいのかもしれない。
誇りに思います、と答えれば、獅子寮の生徒たちも喜ぶだろう。
けれど、口から出たのは、もっと正直な言葉だった。
「怖いです」
講堂がわずかにざわめく。
「俺は、まだ何も知りません。病気のことも、このハンカチのことも。選ばれたからといって、本当に誰かを助けられるのか、わからないです」
手の中の光を見る。
不思議なことに、言葉にした途端、少しだけ呼吸が楽になった。
「でも、助けを待っている人がいるなら、何も知らないままではいたくありません。俺にできることがあるなら、学びたいです」
ミナの顔が浮かんだ。
どこにいるのかもわからない。それでも、あいつにもう一度会えたとき、ただ名前を呼ぶだけの自分ではいたくない。
「逃げたくはありません」
教員はしばらく俺を見つめていた。
やがて、小さくうなずく。
「その気持ちを忘れないように」
「はい」
「ただし」
教員の視線が、俺の首元へ下がった。
嫌な予感がした。
「医療を行う者は、自分の決意だけを伝えればよいわけではありません」
緩んだネクタイを指摘される。
続いて、外したボタンと、まくった袖にも目が向けられた。
「身だしなみは、治療を受ける者へ安心を示すためのものです。医療戦士として壇上へ立つのであれば、なおさら自覚を持ちなさい」
「……はい」
さっき避けてしまったエマの手を思い出す。
あのとき、数秒立ち止まっていればよかった。
「獅子寮、五点減点」
歓声に包まれていた獅子寮の席から、今度は悲鳴に近い声が上がった。
「五点も?」
「せっかく医療戦士が出たのに!」
「何やってるんだよ!」
責める声に、胸が縮む。
医療戦士に選ばれた俺を誇らしそうに見ていた生徒たちが、今は不満そうな顔をしている。
たった一人の服装で、寮全体が点を失った。
壇上に上がるまで、服の形なんて大した問題ではないと思っていた。けれど、俺が背負うのは、自分一人の評価ではない。
光のハンカチを持つ手に、無意識に力が入った。
「さすが、獅子寮の医療戦士だな」
マルクスの声が聞こえた。
蛇寮の列から、こちらを見上げている。
「選ばれた直後に寮へ損害を与えるとは、普通の人間には真似できない」
周囲から笑いが漏れる。
「その格好で患者の前にも出るつもりか? 医療戦士に見えるよう、光る布でも首から下げておけばいい」
言い返したかった。
けれど、今の俺には何を言っても負け惜しみにしかならない。
唇を噛み、壇上を下りる。
席へ戻ると、テオが俺の肩を軽く叩いた。
「選ばれたのは本当だ」
「五点失ったのも本当だ」
「じゃあ、今日は本当が二つだな」
「慰めになってないぞ」
「難しいな。俺、慰めの授業を先に取ったほうがいいかもしれない」
テオはいつもの調子で笑おうとしていた。
その気遣いがわかるからこそ、胸が痛む。
エマは前を向いたまま、低い声で言った。
「だから直してと言ったのよ」
「わかってる」
「わかっていたら、あの場で私の手を避けなかったでしょう」
その言葉には、怒りだけではなく、傷ついた響きがあった。
俺は返す言葉を失う。
「ごめん」
「私に謝ることではないわ」
エマはそれ以上、何も言わなかった。
式が終わったあとも、獅子寮の空気は重かった。
直接責めに来る者はいなかったが、離れたところから不満の声が聞こえる。医療戦士が出た喜びより、五点を失ったことのほうが話題になっていた。
俺は人の流れから外れ、壁際で立ち止まった。
手の中のハンカチは、もう強い光を放っていない。それでも温かさだけは残っている。
選ばれた瞬間、俺は逃げたくないと思った。
その直後に、こんな小さなことでつまずいた。
「似合ってるじゃないか」
声をかけてきたのはマルクスだった。
周囲には蛇寮の生徒たちがいる。誰もが面白いものを見るような顔で、俺を見ていた。
「何がだ」
「その情けない顔だ。医療戦士として期待された直後に、獅子寮中から責められる。おまえにはよく似合っている」
「用がないなら行け」
「急ぐなよ。俺は感心しているんだ。田舎から出てきたばかりのおまえが、一日でここまで目立ったんだからな」
マルクスは俺の手にあるハンカチへ視線を落とした。
「もっとも、その光も人を見る目がないらしい。おまえが探しているミナとかいう田舎者のガキと同じだ」
「今、何て言った」
気づけば、俺はマルクスへ詰め寄っていた。
制服を注意されたときよりも、獅子寮から責められたときよりも、強い怒りが湧き上がってくる。
自分のことなら耐えられる。
だが、何も知らないこいつに、ミナを侮辱される理由はない。
「ミナをそう呼ぶな」
「事実だろう。行方もわからない田舎者のために、この学校へ来たそうじゃないか」
「おまえに、あいつの何がわかる」
「わかる必要があるのか? 世界中で大勢が治療を待っている。それなのに、医療戦士に選ばれた人間が、たった一人のガキにこだわっている」
「たった一人じゃない」
マルクスの胸元をつかみそうになった手を、ぎりぎりで止める。
「ミナにはミナの生活がある。大事にしていたものがあって、会いたい人がいる。病気の人間を数でしか見られないおまえに、医療を語る資格はない」
マルクスの顔から笑みが消えた。
「俺に資格がないだと?」
「ミナを侮辱するなと言ってる」
「やめなさい」
俺とマルクスのあいだに、エマが割って入った。
「ハヤト、手を下ろして」
「でも、こいつは」
「ここで問題を起こしたら、また獅子寮が減点されるわ」
その一言で、俺は止まった。
周囲では、すでに大勢の生徒がこちらを見ている。
俺は拳を下ろした。
マルクスは乱れてもいない胸元を払い、冷たい笑みを戻す。
「今度は女に助けられたか」
「あなたは人を怒らせることしかできないの?」
エマは一歩も退かなかった。
「ハヤトの制服が乱れていたことと、彼が医療戦士に選ばれたことは別よ。身だしなみは直せる。でも、苦しんでいる人を笑う考え方は、簡単には直らないでしょうね」
「随分と偉そうだな」
「あなたにだけは言われたくないわ」
マルクスはエマをにらんだあと、俺へ目を戻した。
「せいぜい、その格好を直す練習でもしていろ」
蛇寮の生徒たちを連れ、マルクスが去っていく。
その背中が見えなくなるまで、俺は拳を握ったままだった。
「ハヤト」
テオが隣へ来る。
「殴らなくてよかったな」
「殴るつもりはなかった」
「胸元をつかむ一歩手前の顔だったぞ」
「……悪い」
「俺に謝るなよ。止めたのはエマだ」
エマを見る。
まだ怒っていると思ったが、彼女の目にあったのは怒りよりも心配だった。
「俺、医療戦士に向いてないかもしれないな」
思わず、そんな言葉が出た。
二人が黙る。
「選ばれた直後に減点されて、挑発されたら頭に血が上がる。誰かを安心させるどころか、獅子寮の仲間まで困らせてる」
「一日目で全部できる人なんていないわ」
エマはすぐに答えた。
「でも、光のハンカチは俺を選んだ」
「だから何も失敗してはいけないと思っているの?」
「そうじゃないけど……」
「光のハンカチが選んだのは、完成した医療戦士ではないわ。これから学ぶ人よ」
エマの視線が、俺の手にある白い布へ向けられる。
「あなたが怖いと正直に言ったことも、それでも逃げないと言ったことも、私は立派だと思った」
「エマ……」
「だからこそ、こんなことで笑われたままにしておきたくないの」
エマは俺の緩んだネクタイをつまんだ。
「三日後に身だしなみ検査があるわ。改善が認められれば、寮に五点加点される」
「取り戻せるのか?」
「簡単ではないけれどね」
「なら、やる」
俺は即座に答えた。
「教えてくれ。今度は逃げない」
「最初から、そのつもりよ」
エマの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
嫌な予感がする。
「ずいぶん準備がいいな」
「式が始まる前から、こうなる気がしていたもの」
「減点されるところまで予想してたのか?」
「あなたが私の忠告を聞かなかった時点でね」
「それなら、もっと強く止めてくれよ」
「止めたわ。手まで伸ばしたでしょう」
「ぐうの音も出ないな、ハヤト」
テオがうなずく。
「おまえはどっちの味方なんだ」
「二人のあいだで安全に生き残る側」
身だしなみ訓練は、その日のうちに始まった。
エマはまず、俺のネクタイをすべてほどいた。
「自分で結んで」
「一応、結べる」
「それは結べる人の形ではないわ」
「形が少し違うだけだろ」
「左右の長さが全然違うものを、少しとは言わない」
横からのぞき込んだテオが、真剣な顔でうなずく。
「右側だけ成長期なんだな」
「ネクタイに成長期はない」
「ハヤトが毎日声をかければ、左側も追いつくかもしれない」
「おまえは黙ってろ」
「テオ、あなたは時間を計って」
エマに指示され、テオが急に張り切り始めた。
「任せろ。十秒以内に結べなかったら、ネクタイが爆発する設定でいこう」
「余計に焦るだろ」
「開始!」
慌てて布を交差させる。
途中で向きがわからなくなり、やり直す。テオは口で秒数を数えながら、なぜか爆発までの効果音までつけている。
「八、七、六、危険な光がネクタイの奥から――」
「普通に数えなさい」
エマに教本で頭を小突かれ、テオが静かになった。
何度やっても、最初は結び目が曲がった。
直そうとすると短くなり、長さをそろえると緩くなる。
ようやく形になったと思えば、エマは襟の乱れを指摘する。
「もう一度」
「今のは悪くなかっただろ」
「悪くない、では検査に通らないわ」
「厳しすぎないか?」
「獅子寮の五点を取り戻したいのでしょう?」
言われると、やるしかない。
俺はネクタイをほどいた。
「もう一度だ」
「その意気だ、ハヤト」
テオが肩を叩く。
「俺はおまえが何回目でネクタイと心を通わせるか、最後まで見届ける」
「見てないで手伝え」
「俺が結んだら、おまえの練習にならない」
「急に正論を言うな」
一日目は、立っているだけで終わらなかった。
服を整えた状態で教本を運び、椅子へ座り、立ち上がり、急いで移動する。そのたびに袖や裾が乱れていないか確認する。
俺は何度もやり直しを命じられた。
「これ、本当に必要なのか?」
十回目を過ぎたころ、俺は息を切らしながら尋ねた。
「必要よ」
「座っただけで裾が少し曲がったくらい、患者は気にしないだろ」
「患者が気にするかどうかを、あなたが決めないで」
エマの声が厳しくなる。
「治療を受ける人は、不安なの。自分の体に何が起きているのか、この先どうなるのか。そんなとき、目の前にいる人が乱れた格好をしていたら、落ち着いて話を聞いてもらえると思える?」
答えられなかった。
「身だしなみだけで信頼されるわけではない。でも、信頼を失うきっかけにはなる。あなたが本当に患者を大切にしたいなら、相手が何を感じるかまで考えて」
エマの言葉は胸に刺さった。
俺は服装なんて自分の問題だと思っていた。
苦しいから緩める。動きづらいから袖をまくる。それで誰かに迷惑をかけるわけではないと。
けれど、医療に関わるなら、自分だけの問題ではなくなる。
「もう一回、やる」
教本を抱え直す。
エマはうなずいた。
「今度は速さより、落ち着いて動くことを意識して」
「俺も一緒にやるぞ」
テオが隣へ並んだ。
「おまえまで?」
「ハヤトだけ成功したら、俺がだらしないほうとして目立つだろ」
「理由が自分のためじゃないか」
「友達と自分を同時に助ける。効率のいい治療だ」
「これは治療じゃないわ」
二日目には、教室へ移動する短い時間も訓練になった。
エマは俺の姿を見るたび、どこか一つは乱れを見つける。
「襟」
「直した」
「袖口」
「今やる」
「上着の裾」
「どこだ?」
「後ろ。テオ、直してあげて」
「任せろ。俺は本日より、ハヤト専用の後方支援隊だ」
「裾を直すだけで大げさだ」
「後方支援は重要なんだぞ。前を歩く者には、自分の背中が見えないからな」
テオに裾を直されながら、その言葉だけは妙に心に残った。
自分の背中は、自分では見えない。
選ばれたことへの怖さも、失敗した悔しさも、俺一人で抱えていたら、きっと見えないままだった。
「二人は、俺が医療戦士に選ばれて怖くないのか?」
昼休み、俺はふと尋ねた。
テオは飲み物を口に運びかけたまま、目を丸くする。
「どうして俺たちが怖がるんだ?」
「俺に何が起こるか、まだわからない。光のハンカチが何を求めるのかも」
「だから、これから知るんでしょう」
エマが答えた。
「知らないことがあるのは、恥ずかしいことではないわ。知らないのに、知っているふりをするほうが怖い」
「でも、俺が判断を間違えたら」
「そのときは、私が止める」
「俺は場を和ませる」
テオが胸を張る。
「それで患者の緊張が解けなかったら?」
「もっと面白いことを言う」
「余計に悪化したら?」
「エマが俺を止める」
「結局、私の仕事が増えるのね」
エマは呆れながらも、少し笑っていた。
「ハヤト。入学式で、一人で全部できると思わないでと言ったでしょう」
「ああ」
「光のハンカチはあなたを選んだ。でも、だからといって、あなた一人だけで治療をする必要はないわ」
「そうそう。俺たちも同じ獅子寮なんだ」
テオが身を乗り出す。
「ハヤトが世界中を一人で走り回るなら、俺たちは後ろから追いかける。たぶん途中で俺が道に迷うから、そのときは迎えに来てくれ」
「追いかける側が迷うなよ」
「三人なら、一人くらい迷っても残り二人いる」
斜め上の理屈だった。
けれど、不思議と心が軽くなった。
「ありがとう」
俺が言うと、テオは少し驚いたあと、照れたように笑う。
エマは視線をそらし、俺の袖口を指さした。
「お礼を言う前に、そこを直して」
「今、少しくらい余韻に浸らせてくれてもいいだろ」
「検査は待ってくれないわ」
三日目の訓練が終わるころには、ネクタイを結ぶ手順を考えなくても、指が動くようになっていた。
上着を着れば、最初に肩と裾を確かめる。教本を持つ前に袖口を見る。座ったあとには、一度立ち止まって全体を整える。
最初は窮屈だった制服が、少しずつ自分の体になじんでいく。
「合格」
エマが言った。
その一言を聞いた途端、俺は椅子へ座り込んだ。
「やっとか……」
「訓練ではね。明日の検査に通るまで終わりではないわ」
「エマ、今だけはハヤトを休ませよう」
テオが俺の肩へ手を置く。
「こいつはこの三日間で、たぶん一生分のネクタイを結んだ」
「明日からも毎日結ぶんだぞ」
「残酷な事実に気づいてしまったな」
「何のための訓練だったんだよ」
俺たちのやりとりを聞き、エマが小さく笑う。
「でも、本当によく頑張ったわ」
今度は、すぐに厳しい言葉を続けなかった。
「医療戦士だから特別扱いされるのではなく、医療戦士だからこそ、誰より見られることになる。あなたなら理解できると思っていた」
「だから、あんなに厳しかったのか」
「獅子寮の五点も大事よ」
「そっちが一番じゃないのか?」
「両方よ」
エマは言い切った。
「あなたが選ばれたとき、私はうれしかった。獅子寮から医療戦士が出たことも、あなたが選ばれたことも。だから、笑われたままにしておきたくなかったの」
胸の奥が温かくなった。
光のハンカチに選ばれたとき、多くの拍手を浴びた。
けれど、今のエマの言葉のほうが、ずっと近くに感じる。
「明日、必ず五点を取り戻す」
「俺も襟を確認するぞ」
テオが言う。
「ハヤトの前側はエマ、後ろ側は俺。完璧な布陣だ」
「本人にも確認させて」
「俺は何を担当するんだよ」
「中身」
「一番難しいものを残されたな」
身だしなみ検査の日、俺は二人に何度も確認されてから列に並んだ。
「襟、よし」
エマが見る。
「後ろ、よし」
テオが俺の背中へ回る。
「顔は?」
「緊張で少し固いわね」
「そこも検査されるのか?」
「笑顔にしておこう。ハヤト、今から俺が面白いことを言う」
「やめろ。笑うより先に疲れそうだ」
「すでに自然な顔になった。俺の役目は終わりだ」
テオが満足そうにうなずく。
名前を呼ばれ、俺は一歩前へ出た。
三日前とは違い、自分から背筋を伸ばす。
教員の視線が首元から袖、靴へと移っていく。
長く感じる沈黙だった。
手に汗がにじむ。それでも、服には触れなかった。二人と何度も確認した。今は信じるしかない。
「ハヤト・キサラギ」
「はい」
「三日前とは見違えました。短い期間で、よく改善しましたね」
胸にたまっていた息を、ゆっくりと吐く。
「俺一人では無理でした。二人に教えてもらいました」
獅子寮の列へ目を向ける。
テオが大きく親指を立て、エマが静かにうなずいている。
「周囲の助言を受け入れ、自分の行動を改めることも、医療を学ぶうえで大切な力です。合格。獅子寮に五点加点します」
獅子寮から歓声が上がった。
今度は、素直にうれしかった。
失った五点を取り戻しただけかもしれない。
けれど、この三日間で手に入れたものは、それだけではない。
光のハンカチに選ばれても、俺は急に何でもできる人間にはならなかった。失敗すれば、悔しい。期待されれば、怖くなる。大切な人を侮辱されれば、冷静さを失いそうにもなる。
それでも、俺の隣には二人がいる。
間違いを指摘し、笑わせ、もう一度やり直すために手を貸してくれる。
俺は一人で医療戦士になるのではない。
そう思えたことが、何よりもうれしかった。
列へ戻ると、テオが勢いよく肩を組んできた。
「五点奪還、おめでとう!」
「重い。離れろ」
「三日間の苦労を分かち合ってるんだ」
「おまえ、途中から応援してただけだろ」
「階段は一緒に走った」
「途中で座り込んでたじゃない」
エマが冷静に指摘する。
「あれは、座ったあとも制服が乱れないか確認してたんだ」
「息を切らして床に寝転がっていたでしょう」
「より厳しい状況を想定した訓練だ」
「今考えたな」
「よくわかったな、ハヤト」
三人で笑い合っていると、別の列で硬い声が響いた。
マルクスが胸元につけていた装飾を指摘されていた。
本人は制服を乱しているわけではないと主張したが、規定外のものは認められない。注意を受けてもすぐに外そうとしなかったため、蛇寮は五点減点となった。
蛇寮から不満の声が上がる。
マルクスは装飾を外し、強く握り締めた。
俺が笑ったわけではない。
蛇寮の減点を喜んだわけでもない。
けれど、マルクスは俺たちのほうを見た。
その目には、三日前よりもはっきりした敵意が宿っていた。
検査が終わったあと、マルクスが近づいてくる。
俺の前で足を止めると、整えたばかりのネクタイを値踏みするように見た。
「三日かけて、ようやく人並みか」
「五点は取り戻した」
「俺たちが減点されたことが、そんなにうれしいか?」
「そんなことは言ってない」
「顔に出ている」
「八つ当たりはやめなさい」
エマが俺の隣に立つ。
テオも反対側へ並んだ。
「規定外のものを外さなかったから減点された。それだけだろ」
テオの声からも、いつもの軽さが消えている。
マルクスは二人を見たあと、俺へ視線を戻した。
「仲間に守ってもらわなければ、何もできない医療戦士か」
「違う」
俺は一歩前へ出た。
「二人に助けてもらったことを、恥じるつもりはない。俺はまだ知らないことも、できないことも多い。だから教えてもらう。間違えたら直す」
マルクスの目を正面から見返す。
「それでも、ミナを見つける。医療戦士として何ができるのかも、この学校で学ぶ。おまえに何を言われても、やめない」
マルクスの表情が冷たく固まる。
しばらく俺をにらんだあと、その唇がゆっくりと動いた。
「これで俺に勝ったと思うなよ。次は、必ず潰す」
今話では、医療戦士に選ばれ、戸惑いながらも、エマやテオの励ましによって、「一人で全てを抱え込む必要はない」ということを学び、エマやテオとの友情が深まります。マルクスも、まだハヤトを陥れることを諦めません。少しでもおもしろいと思われましたら、評価、ブクマ、感想いただけると泣いて喜びます。
十二月半ばの獅子寮は、夜が更けても共有スペースの灯りが消えなかった。窓に映る俺たちの向こうで、ルミナス市の光が白く滲んでいる。紅茶の香りが薄れた机には、開いた教材と、何度も消して書き直したノートが並んでいた。 テオはエマが答えを隠したページを見下ろし、鉛筆の先を止めた。「まず葉の状態を確かめる。それから、保存する場所を選ぶ」 エマが指を退ける。答えを照らし合わせたテオは、小さく息を吐いて丸をつけた。以前なら正解するたび騒いでいたのに、今はすぐ次の問いへ目を移している。「覚えたね。そこ、もう大丈夫」「エマの声つきで頭に入ってる」「試験中まで注意されたくないでしょ」 テオが笑い、机の端へ寄っていた彼女のカップを手元へ戻した。その自然な仕草に俺も口元を緩め、自分の教材に向き直る。最後まで残った付箋は二枚。首席を守りたいという気持ちを、今はこの一問を確かめることに集中させた。 試験期間は、思っていたより早く過ぎた。答案に向かうたび、三人で読み直した箇所が浮かぶ。最後の科目を終えてからも確認用のノートを鞄から出せないまま、俺たちは結果発表の日を迎えた。 学内の掲示画面には、人の輪ができていた。俺はテオとエマが隣にいるのを確かめ、一年の一覧を下から辿った。見慣れた名前を通り過ぎ、最上段で視線が止まる。 ハヤト・キサラギ。学年首席。 すぐ下には、二年への進級決定の文字もある。画面の白い光を見つめたまま、俺は鞄の持ち手を握り直した。嬉しい、と言葉にするより先に、ようやく机から立ち上がれたような安堵が広がる。眠気を追い払いながら解いた問題も、二人と飲んだ紅茶も、ちゃんとここにつながっていた。「……よし」 隣ではテオが袖口をつかみ、一覧の途中から目を動かせずにいる。俺は彼の名前を見つけ、画面を指した。「テオ、そこ。進級決定って」 テオが身を乗り出した。名前を読み、右側の表示を読み、もう一度名前へ戻る。やがて袖を握っていた指がほどけた。「俺も、二年になれるんだよな」「なれるわよ。わたしも一緒」 エマが自分の結果を示すと、テオは彼女の手を取った。勢いよく何か言いかけた口を閉じ、包んだ手を一度だけ揺らす。「ありがとな。何回も教えてくれて」「ちゃんと覚えたのはテオでしょ」 エマは照れたように画面へ顔を戻したが、その手は離さなかった。「わたしも、薬の
獅子寮の共用机には、冬の午後の日差しが斜めに差していた。カップから立つ柑橘の香りが、暖房の風に薄まっていく。俺は問題集の余白に小さく印をつけ、正解したはずの式をもう一度たどった。答えが合っていても、途中で迷った箇所は残したくない。四寮合同一年生総合試験の表紙をめくるたび、首席という二文字が頭をよぎる。「ここ、どうして順番が逆になるんだ?」 向かいでテオの鉛筆が止まった。エマは自分の教材に指を挟み、彼のノートをのぞき込む。「逆にしたんじゃなくて、こっちを先に確かめてるの。ほら、この条件」 細い指が、テオの見落とした一行をなぞった。彼は額にかかった髪を払い、消しゴムを動かす。紙を破りそうな勢いになると、エマがノートの端を押さえた。「ああ……じゃあ、さっきの問題も同じか?」「そう。気づいたなら、そっちも直しておこう」 叱る声を待っていたわけではないのに、その穏やかな応答に俺まで頬が緩んだ。テオもふざけず、前のページを戻って式を書き直している。「落第回避まで、あと何問?」「数える時間で一問解けるわ」「はいはい。研究責任者になる人は厳しいね」「なるために勉強してるの。わたしも、まだ分からないことばかりよ」 エマの教材には、光の病に関わる項目だけ違う色の付箋がついていた。自分の目標を口にしたあとも、彼女はテオの鉛筆が動き出すまでページを閉じない。肩が触れそうな距離で、二人が同じ式を目で追っている。「この二人、ずいぶん仲良くなったな」 紙の擦れる音に紛れるつもりで呟くと、エマが顔を上げた。「わたしたちの見物より勉強に集中して!」「してるって。ちょっと目を休めただけ」 慌てて問題集へ戻った俺の指先が、さっきと同じ行を探す。テオが笑いをこらえて鼻を鳴らし、エマも口元だけを緩めた。 一区切りつけて自室に戻るころには、窓の光が机の脚まで下がっていた。医療棟で二人と合流するまで、まだ少し時間がある。俺は保管していた封筒を取り出し、カードの角に指を添えた。 紙は薄いのに、なくなったときには、そこに書いた言葉まで取り戻せない気がした。見つかったと知らせたときのミナの声が耳に戻る。渡す前から、ずいぶん心配をかけてしまった。 引き出しの内側、手前の浅いくぼみに封筒を寝かせた。端が引っかからないよう指でならし、閉める直前にもう一度位置を確かめる。クリスマスに
ペン先が止まったまま、教材の余白に小さな染みが広がっていた。指を動かしかけても、上着の空のポケットが気にかかる。何度確かめても、ミナに渡すはずのカードの角は触れない。 獅子寮の学習室では、白い窓枠に銀の飾りが揺れていた。卓上のツリーが淡く瞬き、冷めかけた紅茶から甘い香りが立っている。パーティを待つこの部屋で、俺だけが何かを置き去りにしたように、同じ設問から進めずにいた。 向かいでエマが参考書を動かすと、テオは無言でノートを寄せた。腕が触れないほどの隙間が二人の間にある。普段なら気にも留めない距離が、今夜は妙に目についた。「ミナに渡すクリスマスカード、なくしたんだ」 口にすると、二人の手が止まった。「何でそんなこと黙ってたんだよ!」 テオが顔を上げた。思わず背筋が伸びたが、俺もペンを置いて彼に向き直った。「自分で見つけられると思った。でも、見つからない。二人にも手を貸してほしい」「最初から言えよ。ずっと隣にいたんだからさ」 強い声のあとで、テオは俺の教材へ目を落とした。解答欄の白さを見られた気がして、俺は小さくうなずいた。「マルクスは? ミナの検査結果を改ざんした奴だぞ。俺、蛇寮の近くを探ってくる」「気になる。でも、カードの件まであいつだと決まったわけじゃない」「分かってる。まず探す」 エマは端末に学内図を開き、俺のほうへ差し出した。「最後に確認したところから、順番に教えて。覚えていない部分は、そのままでいいから」 俺の答えに合わせ、通路や部屋に印がついていく。曖昧な記憶を無理に埋めようとすると、エマは指を止めて待ってくれた。「焦るわよね。大切なものだもの。でも、探す場所は整理できるわ」 頭の中で何度も繰り返していた道順が、画面の上では限られた範囲に収まった。なくしたことを考えるばかりで、探し方まで狭くなっていたのかもしれない。「ありがとう。俺は医療棟を確かめてくる。終わったら合流しよう」 医療棟の廊下は寮より少し涼しく、窓にはルミナス市の灯りが細かく映っていた。病室へ入ると、ミナが読んでいた本から顔を上げた。その笑顔に、手ぶらで来たことが急に申し訳なくなる。「渡すつもりのカードをなくしたんだ。この辺りも探していい?」「わたしへの?」 ミナは本に栞を挟み、ベッドから足を下ろした。「それなら、わたしも探す。椅子の下、奥まで
獅子寮の談話室には、湯気の立つ茶の匂いが漂っていた。白いテーブルに端末の青い光が映り、俺の手元で教材の影が薄く伸びている。窓の外では、校舎を結ぶ通路の飾りが夕暮れに輝き始めていた。そちらへ目をやりかけ、俺は指に触れる紙の端をめくった。 向かいのエマが示した箇所を、テオがペンで追う。さっきまで首をひねっていた彼は、三つの項目を囲むと、得意そうに顔を上げた。「これ、パーティの準備と同じ順番で覚えればいいんじゃないか? 場所を確認、必要なものを用意、それから動く。そうだ、当日の席なんだけどさ」 覚え方には感心したものの、最後のひと言で俺のペンも止まった。エマは苦笑し、教材の続きを指した。「席は休憩のときに決めましょう。今は、何を確認するのか答えて」 彼女の端末の脇には、服の色を書き留めた小さなメモがある。教材に挟まれかけたそれを丁寧に避ける様子からも、パーティを待ち遠しく思う気持ちが伝わってくる。だからこそ、今のうちに勉強を進めたいのだろう。俺も同じ気持ちで空欄に向き直った。 テオは二問続けて答え、間違えた箇所には印をつけた。ところが次の説明を読みかけたところで、また窓の飾りへ目を向ける。「あの色、エマの服にも合いそうだよな。俺も何かそろえたら――」 エマの指が、ページの端を押さえたまま動かなくなった。先ほどの笑みが消え、言葉の間に短い息が入る。「わたしも楽しみにしているわ。でも、二年生になったら本格的な医学生の訓練が始まるのよ。今より厳しくなるのに、集中できないたびに楽しい話へ逃げるつもり?」 テオは口を閉じた。ペンの先が紙から浮き、そのまましばらく戻らない。俺が声をかけるより先に、彼は椅子の背から身を起こした。「逃げてるって言い方はないだろ。ちゃんと考えて答えてるし、分からないところも聞いてる。少し話しただけで、何も考えてないみたいに言うなよ」 エマの眉が寄った。彼女が戻したいのは勉強の話で、テオが否定したいのは自分の取り組み方への決めつけなのだと思う。けれど、互いの顔を見据える二人には、そのずれを確かめる余裕が見えなかった。「その少しが何度も続くから、わ
獅子寮の共用ラウンジには、温めたミルクの甘い匂いが漂っていた。白い壁に照明が淡い金色を落とし、窓の向こうではルミナス市の明かりが重なっている。俺はマグカップを片手に、端末に表示したクリスマス・パーティの案内を眺めていた。開催日を指でなぞると、その数字の隣にミナの笑顔を置いてみたくなる。「ハヤト、さっきからそこばっかり見てるぞ。もう当日の服まで決めた?」 向かいのテオが身を乗り出した拍子に、隣のエマの袖に肘が触れた。彼はすぐに腕を引き、彼女の前へカップを寄せる。取っ手を受け取ったエマは、抗議する代わりに自分の膝に置いていた端末を少し傾け、テオにも画面が見えるようにした。「服はまだ。まずは、ミナと一緒に過ごしたいと思ってる」 口にしてみると、ぼんやり眺めていた日付が急に近くなった。会場に来られるかは、まだわからない。それでも、クリスマスに誰の隣にいたいかは決まっている。 テオは俺の画面をのぞき込むのをやめ、背もたれに肩を預けた。「いいな。俺もエマとゆっくり過ごしたい。いつもと違う格好で待ち合わせとかさ。同じ寮なのに、ちょっと遠くから来たふりして」 エマがカップの縁から目を上げた。呆れるかと思ったのに、彼女の唇は柔らかくほどけていた。「遠くから来たふりはいらないけれど、待ち合わせはしたいわ。着替えが終わるまで廊下で待たれるより、落ち着いて準備できるもの」 テオが早くも待つ場所を考え始める。その横で、エマは彼の袖に付いた小さな糸くずをつまみ取った。何でもない仕草なのに、二人の間だけ空気が温かく見えて、俺までカップの陰で口元を緩めた。 ラウンジの扉が開き、鹿寮のアキト先輩が顔を出したのは、そのときだった。俺たちを見つけると片手を上げ、空いている椅子の背に指を掛ける。「楽しそうだね。何の相談?」「クリスマスの話です。先輩、ちょうどよかった。光の護身術の練習も、一度――」「その相談より先に、クリスマスの重要事項を伝えたいな」 先輩は素早く椅子を引き、俺の端末に視線を落とした。その切り替えの鮮やかさにテオが吹き出す。俺は持ち上げかけた手をカップへ戻し、先輩に続きを促した。「そんなに構えなくても、まだ日程も言ってませんよ」「日程が決まる前が大事なんだよ。ハヤトに見てもらうとなったら、休憩まできっちり管理されそうだからね」 先輩は冗談めかして肩をすく
「ちょっとあんたたち、いつまで抱き合ってるのよ!」 甲高い声が響いても、腕をほどくには少し時間がかかった。胸元に寄せられたミナの身体が、呼吸に合わせてわずかに動く。病衣越しのぬくもりも、襟に触れる柔らかな吐息も、離れた途端に失われそうで、指先が布をつかんでいた。 ミナに袖を引かれ、ようやく力を緩める。覗き込んだ顔には疲れが残っていたけれど、俺を見上げる目は開いていた。背中に手を添えて枕へ戻すと、髪が白いカバーに広がる。くぼんだ寝具から、二人分の温かさがゆっくり逃げていった。 その向こうで星が揺れた。ベッド脇に置いた杖が、誰にも支えられず浮き上がっている。先ほど聞きそびれた声の主が、今度こそこちらを向いていた。「杖が喋った!」 テオがエマの肩から手を離し、指を突き出した。涙の跡が残る顔を見上げる間に、杖が一直線に飛ぶ。彼の上腕を軽く叩き、かばおうとした腕の隙間から反対の肩も小突いた。痛いというより、どちらを守ればいいのかわからないようで、テオの肘が忙しく上がったり下がったりする。「あんた、指をささないでよ!」 声の大きさでは杖も負けていない。テオがエマの後ろへ身を寄せると、彼女は助けようとして伸ばした手を途中で止め、唇を結んだ。その肩の震えが目に入り、俺まで口元を押さえる。白い壁に映る二人と一本の影が、妙にせわしない。「杖さん、かわいい」 隣から届いたかすかな声に、杖の動きが止まった。テオへ向けていた柄を下げ、今度はそっと空気を滑って戻ってくる。ミナが布団から指を出すと、その手に触れる寸前で速度を落とした。「あなた、見る目があるじゃない」 先ほどの剣幕はどこへ行ったのか。甘い声とともに星が傾き、ミナの指の下へ収まる。掛け布団に淡い光がにじみ、指が動くたびに小さな影も揺れた。俺の袖をつかむことしかできなかった手が、今は何かをかわいがっている。それを眺めているうち、つられて指先の力が抜けた。 ミナの喉から小さな笑いがこぼれた。長くは続かず、すぐ枕に頬を預けたけれど、その口元にはまだ笑みがある。寝具を直すふりで少し身をかがめ、俺も同じ高さから星を見た。「こんなミーハーに作ったつもりじゃなかったんだけど」 アキト先輩が申し訳なさそうに手を伸ばし、杖を取り上げるか迷ったように引っ込めた。説明を探す口が一度開いて、結局そのまま閉じる。作った本人まで遠慮







